私が初めて書き下ろしという言葉の存在を知ったのは小学二年生の頃。当時最も仲の良かった莉子ちゃんから、りぼんという漫画の存在を教えてもらった。ある日のりぼんの付録には目が頬まである女の子のイラストが描かれたカードがついてきた。そこには見慣れない◯◯先生の書き下ろし!という旨が書かれていた。
書き下ろしがなんだか凄いことなのは分かっていた。馴染みのない書き下ろしというドキドキするような単語は、度々りぼんに登場した。
「書き下ろしだってー!」
という莉子ちゃんの凄みにやられては
「そうなんだー!」
と書き下ろしを益々重宝する。
私は書き下ろしを漫画界最高峰の技の一種だと思っていた。書き下ろしができるのはすごい技術を持った指折りの漫画家しかいないのだと信じてやまなかった。
わざわざ書き下ろしをピックアップして一緒に騒いだ莉子ちゃんはいつ知っただろうか。書き下ろしを知る人絶対に書き下ろしをピックアップすることはない。つまり莉子ちゃんも知らない側だったはずだ。
私が書き下ろしの意味を知ったのは生後23年2ヶ月。もうつい最近のことだ。なんなら先月だ。今夢中になっている島田雅彦氏の本に書いてある”書き下ろし”に反応して、ついにWikipediaにて調べたのだった。彼の小説やエッセイでは今まで知らなかった単語がほいほい出てくる。次の行に行けばまた知らない単語、知らない単語だ。(私の頭が少し足らないというのも理由の一つだが…)
少し前置きが長く恐縮だが、本題であるその島田雅彦氏の魅力について。
日本文学、クラシックやオペラなどに小さい頃から傾倒していた島田雅彦氏の文章は、非常にその影響を受けていると思われる。使われている単語が度々洒落ているのはこのせいか、と想像している。クラシックやオペラなどは上品さがある。しかし彼の小説では、破廉恥な描写が飛び交う。突拍子も無いような展開も待っている。もちろん品の良さを感じるようなインテリ要素もある。しかし大部分は破廉恥な描写であることが多い。
アルコールを飲むと幼児化する人がいる。この幼児化によって、より人間の本質的な部分に近づくことがある。島田氏によるナンセンスでユーモラスな展開は、アルコールに似た作用を持つ。
私は彼のナンセンス文学の罠にまんまとはまった。島田氏の小説を読み進めることで脳が混乱の果て、幼児化する。普段は無意識的に避けているような人間の本質を幼児化したことで、より肌で感じることができる。なんというナンセンスな展開なのだ…と思って油断をしているといつのまにか本質にたどり着いている。
皮肉交じりの彼の文体は、粘着性があるかと思いきや案外あっさりしている。彼のスケベさはミントのような爽快感さえ感じる。自意識とは無縁の文章を常に、心がけているためだろうか。私にはそう感じる。
政治的な面で少々一部から批判もあるようだが、彼の文章が好きだ。
PS
「ロココ町」や「僕は模造人間」、「君が壊れてしまう前に」などがおすすめです。